私が有機農業の世界に入った、と言うと少し大げさですが、自分の店を開いたのは1999年5月だったと思います。
その頃、店では「有機無農薬野菜」という言い方をしていました。
今から考えると、ずいぶん曖昧な言葉です。当時の私は、有機野菜とは有機肥料を使った野菜、無農薬野菜とは農薬を使わずに作った野菜、そのくらいの理解しかありませんでした。
まして、有機農業にはそれまでの歴史があり、有機農業運動と呼ばれるものがあり、私より前の世代の人たちが、いろいろな思いを持って生産や流通に関わってきたことなど、ほとんど知りませんでした。
別に、何か大きな理念を持って有機の世界へ飛び込んだわけではありません。
ただ、実際に仕事を始めてみると、普通の商売とは少し違う世界だな、ということは感じました。
今から考えると、ずいぶん曖昧な言葉です。当時の私は、有機野菜とは有機肥料を使った野菜、無農薬野菜とは農薬を使わずに作った野菜、そのくらいの理解しかありませんでした。
まして、有機農業にはそれまでの歴史があり、有機農業運動と呼ばれるものがあり、私より前の世代の人たちが、いろいろな思いを持って生産や流通に関わってきたことなど、ほとんど知りませんでした。
別に、何か大きな理念を持って有機の世界へ飛び込んだわけではありません。
ただ、実際に仕事を始めてみると、普通の商売とは少し違う世界だな、ということは感じました。
当時、私が関わっていたポラン広場では、八百屋と仕入れを担うセンターが月に一度集まって、「広場会議」という会議をしていました。
八百屋が7、8店、多いときには10店くらい。そこにセンターの代表者も加わって、この1か月どうだったか、来月はどんな野菜が出てくるのか、新しい加工食品は何か、といったことを話していました。
私が強く覚えているのは、センターと八百屋が、ほとんど対等に同じテーブルについて話していたことです。
普通なら、問屋と小売店は必ずしも利害が一致しません。売る側と買う側ですから、条件をめぐって駆け引きもします。
ところが、そこでは「一緒にどうしようか」という話をしていました。
流通として見ると、やはり特殊だったと思います。
その頃、先輩たちから農家の話や、有機農業がどういうところから始まったのかという話も少しずつ聞くようになりました。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』や、有吉佐和子の『複合汚染』を読んだのも、その頃です。
八百屋が7、8店、多いときには10店くらい。そこにセンターの代表者も加わって、この1か月どうだったか、来月はどんな野菜が出てくるのか、新しい加工食品は何か、といったことを話していました。
私が強く覚えているのは、センターと八百屋が、ほとんど対等に同じテーブルについて話していたことです。
普通なら、問屋と小売店は必ずしも利害が一致しません。売る側と買う側ですから、条件をめぐって駆け引きもします。
ところが、そこでは「一緒にどうしようか」という話をしていました。
流通として見ると、やはり特殊だったと思います。
その頃、先輩たちから農家の話や、有機農業がどういうところから始まったのかという話も少しずつ聞くようになりました。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』や、有吉佐和子の『複合汚染』を読んだのも、その頃です。
なるほど、こういう背景があったのか、とは思いました。
ただ、私は昔から「運動」というものには少し距離を置くところがありました。
農薬は危険だ、食品添加物は毒だ、といった極端な言い方にも、あまり賛成できませんでした。当時は、そういう危険性を強く煽る本や週刊誌の記事もたくさんありましたが、私は「だから何なんだ」と思う方でした。
少なくとも私にとって一番大きかったのは、もっと現実的なことです。
有機野菜を売って、生活していかなければならない。
これです。
有機農業には理念があります。その理念は大切にしたい。
でも、農家にも生活がありますし、八百屋にも生活があります。いくら立派なことを言っても、野菜を買ってくれなければ農家は作り続けられません。店も、売れなければ続きません。
だから、「普通の農業や普通の流通には任せられないから、自分たちだけで別の世界を作った」というほど単純な話ではなかったのだと思います。
むしろ、普通の流通では十分に売れなかった。買ってくれるところが少なかった。だから、生産者と流通と店と消費者が、自分たちで売れる仕組みを作る必要があった。
結果として、それが普通の青果流通とはかなり違った仕組みになったのだと思います。
後から歴史を整理してみると、有機農業が「特別なもの」として始まったのには、それなりの理由がありました。
当時は、そうしなければ守れなかった。
売り先がない。量も少ない。一般の流通に乗せてもらえない。だったら、自分たちで集め、自分たちで運び、自分たちで売るしかありません。
私は1999年に、そのすでに出来上がっていた世界の途中から入ってきました。
最初から有機農業運動の歴史を知っていたわけではないし、その思想を背負っていたわけでもありません。
それでも、その中で仕事をしているうちに、この少し変わった流通の仕組みが、なぜ必要だったのかは少しずつ分かってきました。
そして今振り返ると、この「普通とは違う仕組み」があったから、有機農業は守られ、続いてきたのだと思います。
では、その仕組みは具体的にどんなものだったのか。
産消提携、自然食品店、有機専門流通、作付、週間発注、振り分け。
ただ、私は昔から「運動」というものには少し距離を置くところがありました。
農薬は危険だ、食品添加物は毒だ、といった極端な言い方にも、あまり賛成できませんでした。当時は、そういう危険性を強く煽る本や週刊誌の記事もたくさんありましたが、私は「だから何なんだ」と思う方でした。
少なくとも私にとって一番大きかったのは、もっと現実的なことです。
有機野菜を売って、生活していかなければならない。
これです。
有機農業には理念があります。その理念は大切にしたい。
でも、農家にも生活がありますし、八百屋にも生活があります。いくら立派なことを言っても、野菜を買ってくれなければ農家は作り続けられません。店も、売れなければ続きません。
だから、「普通の農業や普通の流通には任せられないから、自分たちだけで別の世界を作った」というほど単純な話ではなかったのだと思います。
むしろ、普通の流通では十分に売れなかった。買ってくれるところが少なかった。だから、生産者と流通と店と消費者が、自分たちで売れる仕組みを作る必要があった。
結果として、それが普通の青果流通とはかなり違った仕組みになったのだと思います。
後から歴史を整理してみると、有機農業が「特別なもの」として始まったのには、それなりの理由がありました。
当時は、そうしなければ守れなかった。
売り先がない。量も少ない。一般の流通に乗せてもらえない。だったら、自分たちで集め、自分たちで運び、自分たちで売るしかありません。
私は1999年に、そのすでに出来上がっていた世界の途中から入ってきました。
最初から有機農業運動の歴史を知っていたわけではないし、その思想を背負っていたわけでもありません。
それでも、その中で仕事をしているうちに、この少し変わった流通の仕組みが、なぜ必要だったのかは少しずつ分かってきました。
そして今振り返ると、この「普通とは違う仕組み」があったから、有機農業は守られ、続いてきたのだと思います。
では、その仕組みは具体的にどんなものだったのか。
産消提携、自然食品店、有機専門流通、作付、週間発注、振り分け。
今ではあまり聞かなくなった言葉もあります。
次は、その辺りの話をしてみたいと思います。
次は、その辺りの話をしてみたいと思います。
本書参照:
第1部「有機農業は、どのような流通の中で育ってきたのか」
1「公害・環境問題と、有機農業の出発」
2「産消提携という仕組み」
3「自然食品店と有機専門流通の誕生」
第1部「有機農業は、どのような流通の中で育ってきたのか」
1「公害・環境問題と、有機農業の出発」
2「産消提携という仕組み」
3「自然食品店と有機専門流通の誕生」

