有機農業の歴史を調べると、必ずと言っていいほど「産消提携」という言葉が出てきます。
生産者と消費者が直接つながり、消費者が有機農産物を買い支える。農作業にも参加し、豊作も不作も一緒に引き受ける。
今から見ると、ずいぶん立派な仕組みに見えます。
ただ、私はどうも、最初からそんなにきれいに整理されたものだったとは思えません。
そもそも私自身、「産消提携」というものを知ったのは、有機農産物の仕事を始めてからかなり後のことでした。
生産者と消費者が直接つながり、消費者が有機農産物を買い支える。農作業にも参加し、豊作も不作も一緒に引き受ける。
今から見ると、ずいぶん立派な仕組みに見えます。
ただ、私はどうも、最初からそんなにきれいに整理されたものだったとは思えません。
そもそも私自身、「産消提携」というものを知ったのは、有機農産物の仕事を始めてからかなり後のことでした。
1999年に八百屋を始めた頃には、私はすでに自然食品店や有機専門流通という仕組みの中にいました。産消提携の時代を自分で経験したわけではありません。
先輩たちから話を聞き、後から歴史を勉強して、「その前には、こういう時代があったのか」と知った側です。
今回あらためて調べてみると、やはり実践が先だったようです。
1970年代の初め頃から、各地で生産者と消費者が直接つながる取組が始まり、その後、日本有機農業研究会がそれらの実践を整理して「提携」と呼ぶようになっています。1978年には「生産者と消費者の提携の方法」、いわゆる提携10か条としてまとめられました。
つまり、最初から誰かが「産消提携という制度を作りましょう」と設計したわけではありません。
必要に迫られて、先に人が動いた。
私は、そこが大事なのだと思っています。
私が先輩たちから聞いた話では、とくに関西、兵庫や大阪あたりで、こうした活動が盛んだったようです。実際、兵庫県有機農業研究会は1973年に設立され、1970年代には生産者と消費者の提携が広がっています。大阪周辺も、産消提携や共同購入による有機農業運動が活発だった地域だったようです。
なぜ関西で盛んだったのか。
これは私の推測ですが、街と農村の物理的な距離も関係していたのではないかと思います。
神戸や大阪の都市部から、農家のいる地域へ比較的行きやすい。
「この農家に、こういう野菜を作ってもらおう」
「今度みんなで草取りに行こう」
「収穫を手伝おう」
ということが、現実にできる距離だったのではないでしょうか。
ただ、私が産消提携について考えるとき、少し引っかかることがあります。
後から歴史を振り返ると、
「安全な食べ物を求める消費者と、有機農業を志す農家が手を取り合い、日本の有機農業を切り開いた」
という、非常にきれいな話になりがちです。
もちろん、それは間違いではありません。
でも、始まりはもっと人間臭かったのではないかと思うのです。
農薬を使ったものは食べたくない。
化学肥料を使わない野菜が欲しい。
自分の子どもには、なるべく自分が納得できるものを食べさせたい。
だったら、そういうものを作ってくれる農家を探そう。
私は、そのくらい自分本位なところから始まっていても、何もおかしくないと思います。
むしろ、その方が自然です。
社会を変えようとか、日本の農業を救おうとか、最初からそんな大きな話ではなかった。
自分たちが食べたいものが欲しい。だから、それを作ってくれる人を探した。
その思いが強かったからこそ、草取りにも行く。収穫も手伝う。できたものを引き受ける。
結果として、生産者と消費者の関係が普通の「売る人と買う人」よりずっと深くなったのではないでしょうか。
今回あらためて調べてみると、やはり実践が先だったようです。
1970年代の初め頃から、各地で生産者と消費者が直接つながる取組が始まり、その後、日本有機農業研究会がそれらの実践を整理して「提携」と呼ぶようになっています。1978年には「生産者と消費者の提携の方法」、いわゆる提携10か条としてまとめられました。
つまり、最初から誰かが「産消提携という制度を作りましょう」と設計したわけではありません。
必要に迫られて、先に人が動いた。
私は、そこが大事なのだと思っています。
私が先輩たちから聞いた話では、とくに関西、兵庫や大阪あたりで、こうした活動が盛んだったようです。実際、兵庫県有機農業研究会は1973年に設立され、1970年代には生産者と消費者の提携が広がっています。大阪周辺も、産消提携や共同購入による有機農業運動が活発だった地域だったようです。
なぜ関西で盛んだったのか。
これは私の推測ですが、街と農村の物理的な距離も関係していたのではないかと思います。
神戸や大阪の都市部から、農家のいる地域へ比較的行きやすい。
「この農家に、こういう野菜を作ってもらおう」
「今度みんなで草取りに行こう」
「収穫を手伝おう」
ということが、現実にできる距離だったのではないでしょうか。
ただ、私が産消提携について考えるとき、少し引っかかることがあります。
後から歴史を振り返ると、
「安全な食べ物を求める消費者と、有機農業を志す農家が手を取り合い、日本の有機農業を切り開いた」
という、非常にきれいな話になりがちです。
もちろん、それは間違いではありません。
でも、始まりはもっと人間臭かったのではないかと思うのです。
農薬を使ったものは食べたくない。
化学肥料を使わない野菜が欲しい。
自分の子どもには、なるべく自分が納得できるものを食べさせたい。
だったら、そういうものを作ってくれる農家を探そう。
私は、そのくらい自分本位なところから始まっていても、何もおかしくないと思います。
むしろ、その方が自然です。
社会を変えようとか、日本の農業を救おうとか、最初からそんな大きな話ではなかった。
自分たちが食べたいものが欲しい。だから、それを作ってくれる人を探した。
その思いが強かったからこそ、草取りにも行く。収穫も手伝う。できたものを引き受ける。
結果として、生産者と消費者の関係が普通の「売る人と買う人」よりずっと深くなったのではないでしょうか。
もちろん、その後は運動としての意味も強くなります。
当時は学生運動、反体制運動、環境問題、公害問題など、社会全体が大きく揺れていた時代です。
当時は学生運動、反体制運動、環境問題、公害問題など、社会全体が大きく揺れていた時代です。
私が実際に知っている有機農家の中にも、若い頃に学生運動に関わっていた人や、成田空港反対運動などを経験した人が何人もいます。
社会や国の政策に対する疑問を、暴力的な運動ではなく、農業や食べ物を変えるという方向へ向けた人たちもいたのだと思います。
「反農薬」という言葉も、当時はよく使われました。
近代農業、農薬、化学肥料、大量生産、大量消費。
そうしたものへの疑問と、有機農業は確かにつながっていました。
ただ、それだけで産消提携を説明してしまうと、私は少し違う気がします。
生活が先にあった。
食べることが先にあった。
農家には農家の生活があり、消費者には消費者の生活があった。
そこから必要な関係が生まれ、その後に理念や運動として整理されていった。
私は、その順番だったのではないかと思っています。
そして、だからこそ産消提携には限界もありました。
生産者と消費者が直接つながり、農作業まで手伝い、できたものを引き受ける。
それは非常に強い関係です。
でも、誰もがそこまでできるわけではありません。
実際、後には共同購入の手間や生活環境の変化などから、こうした形を続けにくい消費者も増え、そこから有機専門流通や八百屋など別の流通が必要になっていきました。研究でも、近くに共同購入グループがないことや、共同購入の負担などから提携が成立しにくくなり、専門流通や八百屋が登場した経緯が指摘されています。
社会や国の政策に対する疑問を、暴力的な運動ではなく、農業や食べ物を変えるという方向へ向けた人たちもいたのだと思います。
「反農薬」という言葉も、当時はよく使われました。
近代農業、農薬、化学肥料、大量生産、大量消費。
そうしたものへの疑問と、有機農業は確かにつながっていました。
ただ、それだけで産消提携を説明してしまうと、私は少し違う気がします。
生活が先にあった。
食べることが先にあった。
農家には農家の生活があり、消費者には消費者の生活があった。
そこから必要な関係が生まれ、その後に理念や運動として整理されていった。
私は、その順番だったのではないかと思っています。
そして、だからこそ産消提携には限界もありました。
生産者と消費者が直接つながり、農作業まで手伝い、できたものを引き受ける。
それは非常に強い関係です。
でも、誰もがそこまでできるわけではありません。
実際、後には共同購入の手間や生活環境の変化などから、こうした形を続けにくい消費者も増え、そこから有機専門流通や八百屋など別の流通が必要になっていきました。研究でも、近くに共同購入グループがないことや、共同購入の負担などから提携が成立しにくくなり、専門流通や八百屋が登場した経緯が指摘されています。
だから私は、
「産消提携があったから、日本の有機農業が広がった」
と単純には言いたくありません。
広げるために作った仕組みだったとも思いません。
その時、その人たちが必要だったから、自分たちで作った仕組みだった。
そして、それは一つの時代には大きな役割を果たした。
それくらいに考える方が、私は実態に近いように思います。
この先、有機農産物を求める人が増えていくと、生産者と消費者が一人ひとり直接つながるだけでは足りなくなります。
そこに、八百屋が入り、センターが入り、有機専門流通が生まれてきます。
次は、その話です。
「産消提携があったから、日本の有機農業が広がった」
と単純には言いたくありません。
広げるために作った仕組みだったとも思いません。
その時、その人たちが必要だったから、自分たちで作った仕組みだった。
そして、それは一つの時代には大きな役割を果たした。
それくらいに考える方が、私は実態に近いように思います。
この先、有機農産物を求める人が増えていくと、生産者と消費者が一人ひとり直接つながるだけでは足りなくなります。
そこに、八百屋が入り、センターが入り、有機専門流通が生まれてきます。
次は、その話です。
本書参照:
第1部 2「産消提携という仕組み」16〜17ページ
第1部 3「自然食品店と有機専門流通の誕生」18〜19ページ
第1部 2「産消提携という仕組み」16〜17ページ
第1部 3「自然食品店と有機専門流通の誕生」18〜19ページ


