ここまで、有機農業の流通がどのように始まったのかを書いてきましたが、一つ断っておかなければならないことがあります。私が知っているのは、日本の有機農業の流通の歴史すべてではありません。私自身が入ったのはポラン広場であり、さらにその源流をたどれば、『みんな八百屋になーれ』を書いた長本光男さんたちの八百屋の流れがあります。長本さんの本が出版されたのは1982年ですが、その前から各地で、無農薬野菜を農家から運んで街で売る人たちが動いていました。
一方で、別の流れもたくさんあります。1971年には日本有機農業研究会が発足し、生産者と消費者が直接つながる「提携」が各地で展開されました。生協も産直や共同購入を広げましたし、1975年に始まった大地を守る会も、団地の青空市から共同購入、さらに宅配へと独自の流通を作っていきました。1980年代になると、こうした専門流通、生協、宅配など、いくつもの流れが並行して広がっていきます。
ですから、私がここで書いていることを「これが日本の有機農業流通の歴史です」と受け取られると、少し困ります。ただ、あらためて他の歴史を調べてみても、共通していることがあります。当時の普通の市場流通では扱いにくかったものを流すために、生産者と消費者、生協、八百屋、専門流通などが、それぞれ自分たちで仕組みを作ったということです。その意味では、私が経験したポラン広場の歴史も、有機農業の流通がどう作られてきたのかを見る象徴的な一例ではあると思っています。
前回書いたように、最初は高速道路の橋の下で野菜を仕分けしていたような時代です。当然、それでは量が増えれば回らなくなります。そこで共同仕入れセンターができました。本書でも、農家がそれぞれの八百屋へ持っていくのではなく、一度センターへ集め、そこで仕分けして各店へ送り出す仕組みへ変わっていった、と書いています。
私がポラン広場に入った1999年には、そのセンターは埼玉県の南越谷にある流通団地の一角にありました。そこへ至るまでには、一軒の八百屋さんの自宅ガレージから始まり、手狭になると近所の空き家を借り、さらに倉庫へ、その倉庫も手狭になればもっと大きな倉庫へ、と移っていったそうです。夜中に仕分け作業をするので近所から「うるさい!」と何度も苦情が来て、それで移転したこともあったと聞きました。私が入ってからも二、三回は移転しています。
1999年頃には、もう昔の手作りの集荷所という雰囲気ではありませんでした。何人ものパートさんが荷物を仕分けしていて、物流倉庫として見れば、それほど変わったところではなかったと思います。ただ、八百屋から見れば、あくまで「自分たちのセンター」という感覚は残っていました。センターの基本的な仕事は、農家から荷物を集めて仕分けるところまでで、八百屋は自分の荷物をセンターへ引き取りに行くのが原則でした。希望すれば店まで配送してくれるサービスもあり、私の店は少し遠かったので利用していました。一回5000円でした。
ただ、この頃にはセンターそのものも変わり始めていました。構成員である八百屋のためだけではなく、量販店やグループ外の小売店への卸売を始め、個人宅配の仕分け・物流センターとしても動き始めていました。ここですでに、あとで何度も出てくる「関係性と拡張性のジレンマ」が始まっていたのだと思います。
この流通を支えていた特徴的な仕組みが「作付」です。普通なら、農家が作ったものを市場へ持っていき、そこで売ります。しかし、この仕組みでは、作る前に「いつ、何を、どれだけ作るか」をかなり細かく決めていました。
基本になるのは前年の実績です。まず生産者から、「いつ、何を、どれくらい出したいか」という希望を聞きます。一方でセンター側は、八百屋やその他の販売先で「いつ、何を、どれくらい売れるか」を積み上げます。その二つを照らし合わせ、過不足を調整したうえで、生産者へ改めて「この数量を作ってください」と作付をお願いする。そういう流れです。
草創期には、八百屋と農家が夜な夜な集まって「これはどうする」「こっちは何本必要だ」と本当に話し合っていたそうです。しかし、私が参加した頃には、その実務的な調整は会議の前にほぼ終わっていました。当日の作付会議は、決まった数量を生産者に渡し、センターから全体の状況や今後の方向を説明する、少し儀式的な場になっていました。本書にも、作付会議が次第に実務調整だけではなく、みんなが集まって方向を確認する「農産会議」のような意味を持つようになったことを書いています。
ただ、21世紀に入る頃には、「みんなで力を合わせて有機農業を広げよう」というきれいな話だけでは済まなくなっていました。作る側、売る側、買う側。それぞれに経営があり、それぞれに利益を確保しなければなりません。農家は約束した数量を出さなければならないので、当然、少し多めに種をまき、多めに作ります。初期には「この畑のこの面積を作ってもらい、できたものを引き受ける」という面積の約束に近かったものが、次第に「この数量を納品してください」という数量の約束へ変わっていきました。
ここは大きな違いです。面積を約束して、その畑からできたものを引き受けるなら、生産のリスクを買う側もかなり負います。しかし数量を約束すると、農家はその数量を確保するため、多めに作らなければなりません。約束した分は約束した価格で買ってもらわなければ困ります。一方で、それ以上にできれば、農家としては「これも買ってくれ」と言いたくなります。
だから、余る理由は単純に「今年は豊作だったから」だけではありませんでした。約束した数量を確実に出すために多めに作っている以上、普通にできても余ることがあります。それを店では、「今年は豊作なので、皆さんたくさん食べてください」とお客さんに説明して売ることもありました。今から考えると、これも一種の「消費者教育」だったわけですが、裏側の事情はそんなにきれいな話だけではありません。
逆に足りなければ、欠品するしかありません。そして余ったものがセンターの販売力でも売り切れなければ、有機農産物としてではなく、一般の農産物として市場へ出すこともあります。こういう時には、たいがい一般野菜も豊作で、相場も下がっています。農家は、作付で約束した分については、すでに約束した価格で買ってもらっています。厳しいのはセンター側です。約束分を引き取ったうえで、それを超えて出てきた余剰まで何とか売ろうとすれば、安い相場の中へ出さざるを得ないこともあります。だから、作付という仕組みは農家を守る一方で、その販売リスクをセンター側が引き受ける仕組みでもありました。
もともとの作付は、明らかに農家を守る仕組みだったと思います。とくに面積で約束していた時代は、作ったものを買う側が支えなければ、有機農業そのものが成り立ちませんでした。しかし、規模が大きくなり、面積の約束から数量の約束へ変わっていくと、意味も少し変わります。農家は予定数量を確実に出す。センターや八百屋は、その数量を約束した価格で引き取る。これは、どちらか一方が相手を支えるだけではなく、双方が自分の経営を成立させるための約束になっていきます。
私は、この変化が悪かったと言いたいわけではありません。むしろ、広がれば当然そうなります。数人の農家と数軒の八百屋が顔を合わせて何とかする世界と、量販店や個人宅配まで含めて大量の商品を動かす世界では、同じやり方では回りません。
ただ、ここに有機農業流通の面白いところがあります。人と人との「濃い関係」で始まった仕組みを、広げるためにはシステムにしなければならない。しかし、システムにすればするほど、最初にあった関係は薄くなっていく。
「関係性」と「拡張性」は、どちらも必要です。
そして、この二つがぶつかり始めたところから、私自身が後になって考えることになる「なぜ、有機は広がらないのか」という問題につながっていきます。
まだ、その話に入る前に、もう少し当時の仕組みを見ておきたいと思います。次は、「振り分け」と「6:1:3」の話です。
第1部 4「共同仕入れセンターと、作付・週間発注」20〜21ページ
第1部 5「振り分けと6:1:3に見る『支える流通』」22〜23ページ
