私がポラン広場の仲間に入った理由は、ものすごく単純です。1999年に八百屋を始めるにあたって、店で売る有機野菜や加工食品を仕入れることができたからです。正直に言えば、入る前には、こんなに「濃い」集まりだとは思っていませんでした。ただ、私もこういう集まりが嫌いではなかったので、入ってしまえばすぐに馴染んでいきました。
月に一回、「広場会議」という集まりがありました。八百屋とセンターの人たちが集まって、商品のこと、農家のこと、売れ行きのことなど、あれこれ話をします。そして会議が終わると、ほぼ必ず飲みに行きました。私はそこで、先輩たちからポラン広場や有機流通の創世記の話をずいぶん聞きました。苦労話もあれば武勇伝のような話もありましたが、本人たちは歴史を語っているというより、「昔はこうやっていたんだよ」と、ごく普通に昔話をしていたように思います。
本に書いた「橋の下で野菜を仕分けしていた」という話も、その飲み会で聞きました。謝辞にも名前を書いた関さんから聞いた話です。場所も具体的で、大阪府豊中市の名神高速道路の橋の下だったそうです。そこが当時の有機農産物の流通拠点の一つ、今の言葉でいえばハブのようになっていて、農家が持ってきた野菜を八百屋が分け、それぞれ持ち帰っていました。千葉県では、成田空港反対運動などに関わった後に有機農業を始めた生産者グループが、週に一回、人参を積んで千葉から大阪まで運んでいたそうです。ただし、橋の下に集まっていたのはその千葉の生産者だけではありません。いろいろな地域から野菜が集まり、そこで八百屋へ分けられていた、という話です。
今なら物流センターや集荷場でやることを、高速道路の橋の下でやっていたわけです。しかし、私はこの話を特別な武勇伝として聞いた記憶はありません。関さんも「俺たちはすごいことをやった」と自慢していたわけではなかったと思います。単に、まだ仕組みがなかったから、そうするしかなかった。当時の一つの方法論として聞きました。本書では、このような小さな運び手や八百屋の動きから、自然食品店や有機専門流通が形になっていった、と書いています。
その頃の話の中で、私が「うまい表現だな」と思った言葉があります。「あなたたちは畑を耕してくれ、俺たちは街を耕す」という言葉です。農家は畑を耕す。八百屋は街を耕す。ただそれだけのことなのですが、「耕す」という同じ言葉を使ったことで、両方の役割がとても分かりやすくなっています。
後になると、この言葉は有機農業の草創期を象徴するような、少し格好のいい言葉として語られるようになります。しかし、私が聞いた印象では、そんなに大上段に構えた言葉ではなかったと思います。農家は野菜を作る。八百屋はそれを街に持っていって売る。それぞれ自分の持ち場で仕事をする。そのくらい普通の感覚から出てきた言葉だったのではないでしょうか。少なくとも私は、「有機農業運動の理念を表した名言」として聞いたわけではありませんでした。
ただ、八百屋が単に野菜を右から左へ売るだけの仕事ではないということは、私自身も十分に分かっていました。誰が作ったのか、どういう作り方をしているのか、なぜこの値段なのか、一般の野菜と何が違うのか。店に来たお客さんには、そういうことを説明して買ってもらいます。農家が畑で作ったものを、街の中で買ってくれる人につなぐ。その意味では、確かに「街を耕す」という言い方はうまいと思いました。
私自身が1999年に八百屋を始めた時にも、その役割についての意識はありました。ただし、「俺は街を耕すんだ」というような気負いは、まったくありませんでした。食っていくには売らなければならない。売るためには、商品の優位性をお客さんに伝えなければならない。それだけです。有機野菜を売る仕事に入ってしまった以上、それを売って店を続けるしかありません。そのために説明するし、すすめるし、配達もする。おそらく当時の八百屋の多くも、そんな感じだったのではないかと思います。
今振り返れば、結果として、有機野菜を買う人を街の中に増やしていたことになります。農家が作ったものを買ってくれる人をつくり、その関係をつないでいたわけですから、「いいことをやっていたんだな」と思うことはあります。しかし、それはずっと後になってから思ったことです。当時は、毎日の仕入れがあり、売上があり、売れ残りがあり、店を続けなければならないという、ごく普通の商売でした。
有機農業の歴史は、後から振り返ると、どうしてもきれいな物語になりがちです。「農家は畑を耕し、八百屋は街を耕した」と言えば、確かに格好いい。でも、実際には、売る場所がないから自分たちで作り、仕分ける場所がないから橋の下で仕分け、農家は作ったものを売りたくて、八百屋は仕入れたものを売らなければ食っていけなかった。そういう現実の積み重ねだったのだと思います。
そして、そこから少しずつ、個人の頑張りだけではなく「仕組み」が必要になっていきます。橋の下で分けるより、集める場所があった方がいい。農家ごと、八百屋ごとにやり取りするより、まとめて調整した方がいい。そうして共同仕入れセンターができ、作付や週間発注という仕組みが形になっていきました。次は、その話を書きます。
第1部 3「自然食品店と有機専門流通の誕生」18〜19ページ
第1部 4「共同仕入れセンターと、作付・週間発注」20〜21ページ


